出典:
1960年代から70年代におけるフェラーリの伝説的デザイナー、マウロ・フォルギエリが先週、亡くなった。享年87。今週の Tech Tuesday では、グランプリやチャンピオンシップで勝利した、彼の最高傑作である 312 シリーズを、マーク・ヒューズが振り返る。
キットカー時代に活躍した同時期の大多数のイギリス人デザイナーは、コスワース DFV エンジンを前提にシャシーをデザインしたが、フォルギエリは彼らと違い、エンジンデザイナーでもあった。
フェラーリの同僚、フランコ・ロッチと共に生み出した水平対向12気筒エンジン(フラット12)は、チームが4度のコンストラクターズタイトルを獲得した1970年代のエンジンである。
1975年、このエンジンがフォルギエリ設計の 312T に搭載された時、フォルギエリの長いキャリアにおける最高傑作が誕生した。このマシンは、ニキ・ラウダのドライブによって支配的なシーズンを送ることになる。
皮肉なことに、フォルギエリのフェラーリでの歩みは、フェラーリが危機に瀕していた頃から始まっている。1973年、エンツォ・フェラーリが健康上の問題を抱えたため、フォルギエリは親会社のフィアットの意向で特別プロジェクトに配置された。そのためこの年の F1 マシンは、フォルギエリのフラット12を使いながらも、サンドロ・コロンボによって初期デザインがおこなわれている。ショートホイールベース、楔形のモノコックなど、フェラーリとして極めて斬新なデザインではあったが、悲惨なほど競争力が無かった。
夏になると、エンツォ・フェラーリの体調が上向いて再び指揮を執るようになり、『スノープラウ(除雪車)』として知られる独特のノーズ、幅広のボディと、極端に短いホイールベースを持つマシンのプロトタイプに取り組む特別プロジェクトから、彼を呼び戻した。
フェラーリのレーシング部門に戻ったフォルギエリは、スノープラウで得た知見をもとに、コロンボの 312B3 を改良した。彼はコクピット後方の高い位置に独特のエアボックスを配置し、フラット12への吸気性能を向上させた。
更に彼は、ラジエーターを両サイド、ドライバーの肩の後ろあたりに移動させている。それまでウォーターラジエーターはノーズに、オイルラジエーターはリアウィングの裏側に配置されていた。狙いはよりダイレクトな反応を得るためのマシン重量の中央への集約だが、これは彼が追求したテーマであり、最終的には 312T での F1 初の横置きギアボックスに繋がっている。
ただし 312T 以前の1974年には、'73年マシンのモノコックを引き続き使用した、312B3 の更なる改良型が登場している。その年、新たに加入したニキ・ラウダはこのマシンで9回のポール・ポジションを獲得し、フェラーリは優勝を争う位置に返り咲いた。
これは '73年の B3 を原型とした見事な改良で、ラジエーターを両脇に配置したアドバンテージをフルに発揮、滑らかな車体側面と、リアウィング下の空間を広く確保し効果の向上を得た。余裕のできたフロントのスペースには、更に大きなデルタ型のウィングを搭載している。
彼はスノープラウと同様にエアボックスの高さを上げ、車体の幅も広げている。フェラーリのスポーツカー(下図の 312P)のデザインを経て、大きな車幅は、路面に接近して走行する際、強いダウンフォースを生むことを学んでいたのだ。前後は短く幅は広く、これが非常に上手くいった。
翌年の 312T(3リッター、12気筒、横置きの T)では、ギアボックスを横向きに配置することで、重量の中央への集約を更に進めた。
また、'74年型 B3 の更なる改良点として、ラジエーターをより水平に配置し、ボディワーク上面との一体感を高めた、美しくも見事なサイドポッドを実現している。フロントサスペンションは、サブフレームへのマウントではなく、バルクヘッドの前端に直に接続され、そこから長く、洗練されたロッカーアームがホイールまで伸びている。
フォルギエリのフラット12はライバルのコスワース DFV よりもパワーに優れていたため、312T は最速のコスワース搭載マシンよりもウィングを立てることができ、ラウダがハンドルを握ると、殆ど無敵となった。1976年序盤を連勝し、スペイングランプリ以降は、マシンの基本は同じだが、新たな寸法要件とエアボックス禁止に適合した 312T2 が後継となった。1977年、ラウダはこのマシンで自身2度目のワールドタイトルを手にする。
フォルギエリはフェラーリで数多くの F1 マシンやスポーツカーを手掛けたが、312T こそ彼の優れた才能の縮図と言えるだろう。